誰かを良く思えない時~「共存」するための考え方~
くれたけ心理相談室大阪支部 心理カウンセラーの宇野謙一です。
ご訪問いただき、ありがとうございます。
誰にでも「誰かを良く思えない時」はあると思います。
だからこそ、人間同士の不和が絶えない。
これは、殆どの方に共通する思いではないでしょうか。
カウンセラーとて例外ではない筈。
それが人間。それで当然。そういう考え方もあっていいと思います。
私自身、様々な場で、「誰かを良く思えない時」はあります。
私も含めた他人に対する接し方に問題(改善の必要)を感じたり、人としての考え方やあり方に疑問があったり、ひどい時には、傲慢になるまいとする真摯な姿勢に対して理不尽とも思える批判を受けたり、その理由は様々です。
そこで悩ましいのが、その「良く思えないこと」一点をもって、それが相手の全てではないということをどこまで弁えられるかということで、そこを踏まえて考えると、「誰かを良く思えない」ことがあるのは致し方ないとして、それを「嫌う」や「憎む」にまで発展させないこと、いかに「共存」するかを考え努力すること。ではないかということが一つの考え方として言えるのではないかと思います。
私の好きな「必殺シリーズ」にこんなエピソードがあります。
「暗闇仕留人」第27話(最終回)「別れにて候」
開国か攘夷かで揺れる幕末。幕閣の足並みが揃わぬ中、真に先を見据えて強く開国を主張する若年寄・松平玄蕃頭。
彼は、私生活では一人娘を溺愛する一方で、悪徳商人と結託してアヘンを吸ったり、自分の屋敷から真っ直ぐに海を見渡したいために「目障りだ」という理由で町家を打ち壊させたり、それに逆らった町人を死に追いやったりしていました。
そうした悪行がもとで、仕留人の殺しの標的になりますが、仕留人の一人・糸井貢(演:石坂浩二氏 ※高野長英の弟子。松平玄蕃頭の開国論に共鳴している)は、こう言って強硬に反対します。
「俺たちに殺られた奴らにだって、妻や子がいたかもしれないし、好きな奴があったかもしれないんだ」
「今度殺ろうという相手、松平玄蕃頭-その身辺は確かに清廉潔白であると言いきれんものがあるかもしれん。しかしな、彼の幕閣における見識、国を開こうとする勇気は今の幕府にとっちゃあ、なくてはならんものなんだ。その人の一面だけを捉えて糾弾するのは間違ってるとは思わんか?」(これは、「罪を憎んで人を憎まず」というところがあったのかもしれません。個人的には、事情が事情だけに、さすがに無理があるような気がしますが)
そんな気持ちを抱えながら、結局は、殺しに赴きますが、いざ松平玄蕃頭を殺そうとしたその時、「分からんのか?儂を殺せば、日本の夜明けが遅れるぞ!」の言葉に一瞬の迷いが生じ、返り討ちに遭ってしまいます。
松平玄蕃頭は、その場で他の仲間の手で始末されますが、翌朝、彼の遺体に取りすがって泣く(優しかった父の死を悲しむ)娘の姿が確かにありました。
これは極端な例かもしれませんが、糸井貢の言葉や殺された父の遺体にすがって泣く娘の姿から、「良く思えない」相手にも様々な一面がある。「人は見る相手によって立ち位置が変わる(ライフロール)」。といったようなことが映像を通じて私には伝わってきました。
「誰かを良く思えない時」に考えなければならないこと。
「良く思えないこと」一点が相手の全てではないというのは勿論ですが、その「良く思えないこと」が何のためのものか(相手の言動の奥に何があるかを考える)。「良く思えないこと」以外の相手との関わりがどんなものかを思い起こしてみる。こういったことが必要且つ大切ではないかということが一つの考え方として言えるような気がします。
そして、「共存」を図る。
同じ目的を持つ者同士なら尚更ではないかと私は思います。
「共存」するための考え方の第一歩は、簡単に言えば、子供の頃、作文に「両親はよく僕を叱ります。でも、それは、僕がいい子になるように、僕のためを思って叱ってくれているのだと思います」と書いたのと同じ気持ちで相手を見つめてみるということであるような気がします。
そして、「良く思えないこと」以外の相手との関わりがどんなものかを思い起こし、そちらを相手の本来の姿として捉えてみる。
これらは、実は、私が日頃「誰かを良く思えない時」に意識していることでもあります。
「僕がいい子になるように、僕のためを思って叱ってくれているのだと思います」
子供の頃、作文に書いたこの言葉を大人の自分に置き換えて、今の状況を見つめ直す。
たとえば、「自分がされて嫌なことは人にもしない」など、子供の頃に学んだり持っていたりした感覚が如何に大切かを最近改めてかみしめています。
「誰かを良く思えない時」があっても「共存」していけるよう、いつまでもその感覚を大切にしたいですね。
お楽しみ様でした。

「(たとえ悪党でも)俺たちに殺られた奴らにだって、妻や子がいたかもしれないし、好きな奴があったかもしれないんだ」「一面だけを捉えて糾弾するのは間違ってるとは思わんか?」。これは、「良く思えない」相手にも様々な一面がある。「人は見る相手によって立ち位置が変わる(ライフロール)」。ということを言い表していると思います。作文に「両親はよく僕を叱ります。でも、それは、僕がいい子になるように、僕のためを思って叱ってくれているのだと思います」と書いたのと同じ気持ちで相手を見つめてみる。誰かを良く思えない時、相手と「共存」するための考え方として大切にしたい感覚ではないか。そんな気がします。
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